跳訳雑感

ゆるオタの備忘録です。

作品と人格は切り分けて考るべき(だけど難しい)

世間が騒々しく、ある意味では静まっている間、自身はほぼ変わりない生活を送りつつも精神的に疲れておりました。
そんななか、ジャンプでも長期人気連載が続々と終了し、思い出でも書こうかしらと思っていた矢先の「逮捕」でした。
この気持ちは将来的に残しておいたほうが良い気がし、徒然に書くこととしました。

マツキタツヤ氏は罪を犯し、その逮捕は全国的に報道され、原作者を務めていた「アクタージュ」という良い作品は打ち切りになってしまいました。

ジャンプ読者をそれなりに続けていますので、どうしても過去の事例が浮かびました。間接的暴力であった某和風ファンタジー作家よりも明らかに重く、場はそれなりに選んでいたと思われる某ギャグ作家よりも(おそらく)多数の被害者を出し、少なくとも休載は免れないだろうと。ただ、作画者には何の罪も無いので、原作者すげ替えはあり得るかもしれないと。そんなことを考えていた矢先の打ち切り宣言でした。編集部の声明には作画者のサポートが明記されており、私を含め多くの読者はほんの少しだけ安堵したことでしょう。

さて、今回の騒動にあたり、作品と人格は切り分けるべきだ、という論が散見されました。
もちろんこの考え方は正しいです。なにも著名人に限ったことではありません。某有名チェーンの暖かい下着は絶賛されるべきですし、そこの労働環境は批判されるべきです。出来上がった素晴らしい物と、それを産みだした様々な要因は別々に評価するべきです。

しかしそれは難しい。

作品と人格を切り分けて評価する、ということは、「多大な制約を守るためのリソースを割いた上での作品」と「何の制約も守らず作品に100パーセントのリソースを割いた作品」を同じ俎上で比べることになります。現実にここまでの極端な事例は無いでしょうし、今回の例に限ればストレス発散や欲求充足の制約が緩かっただけで、大したリソース差にはならないでしょう。それでも所謂「ズル」をしているものが高い評価を獲得し続けると、生産側の環境は悪化していく大きな要因になりかねないのでは、という感覚が間違いだとは思えません。消費者側の多くは生産側に立つ時期がありますので、作品に対する評価は「ズル」による減点を行ったうえで行いたい、という気持ちがあるのは自然だと思います。そしてこの気持ちは理性からも産まれてくるものだと言い切るのは過言でしょうか。

漫画読みとして、素晴らしい作品を読みたいという欲求が尽きることはありません。しかし労働者として、「ズル」をして産まれた作品を広めたくはありません。しかも、今回の「ズル」には明確な被害者が居るわけで、誰かを理不尽に傷つけてまで良い作品を産み出してほしいわけではないのです。

アクタージュですが、そのあたりが解せないと言いますか、確かにシナリオも良いのですが何より絵柄が素晴らしい。絵は描かないのでよく分からないのですが、それなりの太さのある線なのに妙に少女漫画のような透明感があり、とても魅力的だと思っています。そんな多大な魅力を「ズル」無しに提供していた作画者が、仕事を奪われた上に悪いイメージと共に報道されるのは、労働者としても理不尽であり漫画読みとしても欲求が満たされず、自身の中に反対するものが居ないわけです。それゆえに大騒動になったような気もします。これから既刊が絶版になる可能性もあるわけですが、印税は作画者と慰謝料支払先で折半して絶版は回避すべきだという意見が出てきたのも、そのあたりが要因なのかな、と。個人的にも絶版回避は賛成です、書店で平積みは難しいかもしれませんが。

片方は何の罪も無いのに、という事例は最近だと電気グルーヴの例でしょうか。あれは明確な被害者が居ない事例ですが、消費者感情としては似通っているかもしれませんね。

最後に蛇足。性犯罪を見逃さずきっちりと仕事をした警察官の方と、泣き寝入りせずしっかり訴えた被害者の方へ、労働者としては「ズル」を教えてくれたことに、人間としては治安の維持へ貢献してくれたことに、感謝を。多方面への対処へ追われる編集部へ、漫画読みとして激励を。そして宇佐崎先生に、この理不尽を跳ね返すような幸福があらんことを。