跳訳雑感

ゆるオタの備忘録です。

誰も傷つけない表現は無い「ルックバック」

修正が来て、私の深読みも的外れじゃないのでは?と思えたので記録として徒然と。

※ネタバレします。

公開日の日付まで合わせているあたり、この作品は例の事件で残された側に対する寄り添い、がメインなのかなと。多くの人がそう受け取ったと思います。ただエンタメにおいては、例の事件を扱うことそのものが、誰かを傷つけることになりかねません。それなのに敢えて公開日まで合わせ、犯人の動機を同じものとしたわけで、それは大きな意味をもつからやるわけです。当然、作者ですら読者側からの「配慮を!」という声が飛んでくるのは予想したでしょう。誰かを傷つける覚悟があったに決まってます。

そこで今日の修正です。

修正された理由は統合失調症のかたへの配慮、と言われていますが、それだけなら「クリエイターの成れの果てとしての犯人像」は崩さなくても可能です。もちろん、例の事件との関連性を薄める意図もあったとは思いますが、「俺は努力しても芸大なんて入れなかった」「なんでお前の作品は評価されるんだ」とか、そんな感じでも良かったはずです。なのに今日の修正は「誰でも良かった」なのです。

表現の自由と言うものは、公共の福祉とバランスを採りつつ存在していくものです。
現在、行われている表現規制の中には妥当なもののほうが多いでしょう。しかし、ここ数年、公共の福祉という存在があまりに大きく見える事案が目立ちます。最近だと宇崎ちゃんポスターの件が印象的ですね。確かにトラウマが蘇る人は少なくないでしょう。ただ、表現というものは究極的に、存在するだけで「表現をしたくても出来ない人」を確実に貶めます。なるべく多くの人を傷つけない表現は必要ですし素晴らしいものですが、そこに疎外感を覚える人は必ず存在するのです。この世に誰も傷つけない表現など存在しません。ルックバックでも、藤野の漫画が結果的に京本の命を奪ったわけですし、京本の作品が犯人を狂わせました。これを表現の加害性を描いたものだと受け取るのは深読みすぎでしょうか。

「仲のいいあの人が傷ついたから」「尊敬するあの人を貶めている」そんな正義心や善良さで表現が規制される事案が後を絶ちません。表現の加害性を削っていくのは確かに大事な事でしょう。ただ、京本は藤野と出会わないほうが良かったのでしょうか。藤野の妄想通り、命は助かったかもしれませんし、犯人の罪もかなり軽く出来たでしょう。2人が生きている世界線も素晴らしいものには違いありません。それでも、そこには2人が出会わないとあり得なかった素晴らしい世界があるのです。命を奪われることに見合わない、という人が多数かもしれませんが、2人が出会った世界を誰が否定できるのでしょう。その尊さなんかよりも命が大事だとお説教を垂れる正義心は、果たして全肯定できるものなのでしょうか。尊さを全く理解できていないから「何でこんなものを描いたんだ」、ひいては正義心をぶつける相手なんて「誰でも良かった」んじゃないか。まったくもってその通り、であるはずがないのに、表現の自由を愛する立場としては、今回の修正がそういう皮肉にしか見えないのです。